唐櫃~若菜~
2008.05.11 |Category …小説~唐櫃~
「うわ!」
「きゃっ!」
突然視界に入ってきた少女の姿にフェリオは驚いた。
鍛えぬかれた反射神経で体にブレーキをかけて二人の衝突は免れた。しかし体を横倒しにした為にフェリオは渡り廊下から庭へと落ちてしまったのだ。
近くでわらじが、ぽすっと地面に落ちる。
いてて…とフェリオは起き上がり頭を擦った。
背中に衝撃はあったが、受身を取った事と、渡り廊下と庭の高さが2、3段ほどだったのでたいした痛みはなかった。その代わりに着衣は上から下まで砂まみれ。
小さくため息をついてから、フェリオは渡り廊下に視線を向けた。その先には小さな体をさらに小さくする様にしゃがみ込んで丸くなった少女がいる。なぜだろう、その場から全く動かない。
フェリオは不安になって庭から廊下にピョンと廊下に飛び乗り、風に駆け寄った。辺りには数冊の本が散らばっている。
「おい、大丈夫か!」
すぐ近くでかけられた声に風は恐る恐る顔を上げた。
琥珀色の大きな瞳をした少年がこちらの様子を伺っている。
すると風はもう一度俯いて肩をすくめるとポロポロと涙を流し始めた。
「・・・っ・・・―」
激突を寸前で回避した、と内心ほっとしていたフェリオは突然目の前で泣き出した風に心底驚いた。
子供ながら男子が女子を泣かせるなど、みっともない事だという教えが強く頭を過ぎる。
「ど、どこか痛むのか!?」
フェリオの問いに風の返事はない。困り果てたフェリオにさらに追い討ちをかける声がした。
「おーい、フェリオ!」
先程まで遊んでいた友人の一人だ。どうやら追いかけてきていた雑兵は巻いたらしい。しかし今のフェリオにとってほんの数分前の遊戯はもうどうでもよかった。
自分の前で少女が泣いている。こんな状況を他人に見られて大人に告げ口されては困る。フェリオは慌ててもう一度庭に降りると、転がったわらじを掴む。それから数歩その声の方へ駆けてわらじを投げ
「ごめん、オレ用事思い出したから抜けるなー!」と冷静を装って叫んだ。
「えーなんでだよー!」
大きな弧を描いたわらじが友人の手に渡ると同時に聞こえてきた声に気づきながらもフェリオはそれを無視をして、風の足元に散らばった御伽草子をかき集め、左の小脇に抱えた。
「行こう。」もう片方の手で風の手を取る。
「え?」無理やり立ち上がらされて風は驚き、そして繋がれた手に顔を赤くする。
早歩きなフェリオの後ろ姿を見つめながら、風は小走りになりながらもただグイグイと手を引かれ、二人はそのまま館の中に入っていった。
同じ様な部屋が並ぶ回廊を歩き、ある部屋の前で足を止めた。
失礼します、とフェリオが声を掛けると中から「どうぞ」と返ってくる。フェリオは繋いだ手をそのままに襖を開けた。
部屋は陽の光だけの割にとても明るくて清潔な雰囲気だ。そしてすぐ目に飛び込んできたものは金色の長い髪の女性だった。
「どうされたのですか?フェリオ。」
優しい笑顔に合った優しい声。その女性をフェリオは姉上、と呼んだ。
「こいつが…ケガしたかもしれなくて…」
フェリオの繋いだ手の先にいる風を見て一度目を丸くすると、彼女はあらあら、と困ったにしては明るい声で答えた。
「お入りなさい。」
そして優しい声でそっと二人を中へ招き入れた。
少年が姉と呼ぶ碧眼で美しい女性の前に風は座らされる。初対面でこんなにも品のある『大人の女性』に見つめられ、風は身を竦めた。
「そんなに怖がらないでください。私はエメロード。どこか痛いところはありますか?」
「い、いえ…大丈夫ですっ。」
「ウソだ。だって泣いたじゃないか。」
突然割り込んできた声に風はビクッと体を震わせる。フェリオは二人から離れて扉に一番近い位置でこちらを見ていた。
「フェリオ。」
静かに、といった感情を含めてエメロードはフェリオの名を呼ぶと怒られたと捉えたのか、はい、とフェリオは首を垂れた。
エメロードの視線が風に戻る。真剣で心配そうな瞳。
「本当に?」
「は、はい。ただびっくりしてしまって…。」
風は俯いて顔を赤らめた。どこかを痛めたなら未だしも、驚いただけで泣いてしまった事がとても恥ずかしい。
すると風の頭にふわりと暖かいものが触れる。
風は驚いて顔を上げるとそれはエメロードの優しい手だった。そして目の前にはエメロードの笑顔。
「それは安心致しました。」
―なんて暖かくて優しいのだろう。
その手のぬくもりに風も自然と笑顔になった。
「それでは、これから私と一緒にフェリオの手当てをしてくれますか?」
え、と目を丸くする風とフェリオ。
優しいけれど先程よりもどこか明るさを含む声を出してエメロードがフェリオを見た。
フェリオは風に怪我が無いと確信し、「よかった。」とまた先ほどの悪戯という名の遊戯に戻ろうと考えていたものだから、突然の姉の言葉に驚いたのも当然である。そんなフェリオを知ってか知らずかエメロードは続けた。
「ケガをしているのでしょう?その格好を見ればわかります。」
確かにフェリオは庭に落ちた時の格好のまま。端から見ればフェリオの方が怪我をしていると思うだろう。
「オレは大丈…」エメロードが白く細い手をそっと伸ばした。
「フェリオ、こちらへ。」
否と言わせぬエメロードの笑顔がフェリオにグサリと刺さる。この笑顔に勝つ術をフェリオはまだ知らない。無力な少年は、「はい」と諦めて足を前に出した。
「はい、終わりました。」
そう言うと、風は包帯の端をきゅっと結んだ。
「へえ、結構上手いんだな。」フェリオは腕にまかれた包帯をまじまじと見る。幸い目立つ怪我はこの腕だけで、手当てはすぐに済んだ。
「ありがとうございます。」フェリオの言葉に少し照れながらも、笑顔で答える風。傍らにあった薬箱に医療道具を片付け始める。
とても慣れた手つき。普段、同い年の男子ばかりとやんちゃばかりしているフェリオにとってそれはとても新鮮な光景だった。
-これが…女の子。
窓からそよかぜが流れ込んでくる。そのかぜが風の髪を優しく揺らすと、甘い花のような香りがした。
中身を綺麗に入れ終えた後、蓋をして薬箱を風呂敷で包む小さな手をフェリオはただ、ぼーっと見つめていた。
その視線に気付き、風が「なに…か?」と首を傾げ問いかける。
フェリオは、はっと我に返り、顔を赤くするとすぐさま視線をそらして「そ、そういえば姉上はいつ戻ってくるんだろうなっ」と少し裏返った声で言った。
「そうですね…。」
今、部屋にエメロードの姿はない。
少し前、フェリオの手当てをしようと準備をしていると、エメロードは侍女に呼ばれ、部屋を出て行ってしまったのだ。
必然的に残された風がフェリオのケガの治療をする事になった。
始めはヒトの…それも男子の身体に触れる事に困惑したが、自分との激突を避けて怪我をしたと幼心ながらも責任を感じていた風は、意を決して彼の肌に触れ、見事に手当てをし終えたのだった。
「あの・・・ごめんなさい。」
突然の謝罪の言葉にフェリオがえ、と風の方を見た。俯いて髪で少し隠れた表情は曇っている様にみえる。
「私が注意して歩いていなかったから、貴方にこんなお怪我をさせてしまって…」
「ち、違う!あれは俺が急に飛び出したから悪いんだ!」
フェリオは首を横に大きく振るとそれから思いっきり頭を下げた。
「ごめん!」
その行動があまりにもオーバーで、風は手を胸の前に添えたまま固まってしまう。それからくすくす、と小さく笑うと両手を膝の上で重ねた。
「それでは私たち、お相子ですね。」
「そ、そうだな。」顔を上げて、ははっとフェリオも笑う。
「俺はフェリオだ。」
「私は…風、と申します。」
「風か、じゃあ俺たち今日から友達なっ。」
フェリオはニッと笑って手を前に出した。その様子にただ驚く風。
「とも…だち?」
「そう。…ダメか?」
フェリオは不安な顔をして手を降ろしかける。
風は反射的にいいえっ、と首を横に振り、そっと手を伸ばしフェリオの手に近づけると、風が掴む前にフェリオがぎゅっと手を握った。
「よろしくな、風。」
「はいっ!よろしくお願いします、フェリオさん。」
そっと指先がフェリオの手に触れるくらいの力で握り返し、風は今日一番の笑顔で照れながらも笑った。
―握手。それは会釈が主流な日本にはなんだか不釣合いで、風にはとても新鮮で、今更ながらどこか改まった挨拶だった。
照れながらも手を握り、笑顔を交わす二人。その姿はただ可愛らしくて純粋な子供という以外何者でもなかった。
しかし、時は平安時代。
二人がそれぞれの身分の違いを痛感させられた出来事が起きたのは、それから半年ほど経った紅葉が赤く庭を染めるやや肌寒い秋の事だった。