唐櫃~萌芽~
2008.09.22 |Category …小説~唐櫃~
雲が月を隠してくれたあの日。初めての逢瀬の日。
あの日以来、昼間は女房たちがフェリオの行く手を阻んでいるのか、走ってやってきては自分の名を読んでくれる彼の姿を見ることはなくなった。
けれど、それに反比例するように、臥待月の頃や気紛れな雲が夜の光を遮ってくれる日に、彼がこっそりあの松の木の下に来ることが増えた。
初めはもしやと訪れ、二度目は僅かな期待を抱き、三度目は不確かな予感を信じた。
そうして始まった小さな逢瀬が、日常になるまでにそう時間はかからなかった。
「・・・フェリオさん、」
暗がりに目が慣れないうちは自分の家の庭と言えど、歩くのは怖い。
例え逢瀬が日常になり、そこに向かう道がいつも同じでも、闇の向こうから野良犬か何かが飛び出してきたらと思うと震えてしまう。
「…フェリオさん?」
不安でいつも彼の名を呼ぶ。きっと来てくれているはずだけど、もしかしたら今日は…。
もし彼が来ていなければ、自分はこの暗闇の中に一人きり。
そうやって、不安に押し潰されそうになった時、そんな時はきっと…。
「…こっちだよ、風」
そう、彼はいつも優しく名前を呼んで道を示してくれる。
月が出てきた訳でも、明かりが灯った訳でもないのに、彼に名を呼んでもらった瞬間、いつもすっと辺りが見えるようになる。
「風、こっちこっち」
すっかり耳に馴染んだ声を頼りに、松の木の下に辿り着くとフェリオは必ず笑顔で出迎えてくれる。
「大丈夫だったか?見つかったりしてないか?」
「…いつもそう仰いますけど、私はそんなに頼りないですか?」
「あ、いや、違うんだ、そうじゃなくて……」
「…ひどいです、フェリオさん」
少し拗ねたように言うとフェリオは驚き、慌てて首をぶんぶん振って否定する。
上手く言えないのか言い淀む彼に、追い討ちをかけてみるとますます困り出した。
変わらず元気らしいことが解るとおかしさが込み上げてきて、風は思わずくすくすと笑みを零した。
「あ…からかったな?」
「ふふっ、すみません。いつも大丈夫かと聞いてくるんですもの。ですから、私がしっかりしてるところをお見せておこうと思いまして」
「…一本取られたな」
「しっかりしてますでしょう?」
「ま…そーだな」
悔しいのか、ぷいとそっぽを向いたまま投げやりに答える様子がおかしくて、風は再び笑いを零した。
それを見たフェリオは軽く肩を落とすと、むくれるのを止めてそっと風に向き直った。
「もうちょっとカッコよく渡したかったのになあ」
「…え?」
そっと渡されたのは小さな撫子の花束。
10本足らずの花の根元を紐で括っただけの質素な花束だったが、フェリオが朝からずっと庭中を駆け回って集めて作ってくれたものだった。
静かに高鳴る胸を押さえ、差し出された花束を受け取った。
「…これは、何に対するお詫びですか?」
「お詫び?」
「以前、花を頂いたときは驚かせたお詫びでしたから…」
「ああ、あれか…。今回のはそういうんじゃないんだ」
「…?ならば、何故?」
「なっ…べ、別に何でもいいだろっ」
そう言ってそっぽ向いてしまった彼の頬が赤くなっていたような気がするのは、自分の見間違えだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、風は御簾ごしに輝く月を眺めた。
今日は満月。月の光は庭の隅々まで明るく照らしている。
もっと幼い頃は、火を焚かずとも明るい満月の夜が好きだった。
それも逢瀬が始まった今では、少しでも月明かりが暗い夜の方が好きになった。
満月の夜は逢えない。
お互いにそう約束した訳ではなかったけれど、そんなことも暗黙の了解となってしまうだけの逢瀬を重ねた。
月の明るい夜は草子を広げて文字を追う。目は文字を追うものの考えることは今までの逢瀬のこと。
できるだけ気配を殺し、雑兵の目をすり抜けて、草むらの中を掻い潜って逢いに来てくれる彼。
服が土で汚れていることなんていつものこと。木の枝に引っかかったのか、腕に傷を作っていたこともあった。
ろくな道具も持ってはいなかったものの、せめて傷口を布で押さえるだけでもと近寄ると、服が汚れるとバレるからと止められた。
「…服なんて……構わなかったのに………」
悲しかった。傷を作ってまでフェリオはここに来てくれる。
それなのに、ただ、服が汚れるという理由だけで、触れることすら出来ない。
きっと傷は痛いだろうに、自分の無力さに泣きそうな私を見ると、大丈夫だからと笑顔を向けてくれる。
「…どうして?」
どうして、私は何も出来ないの?
私だって、彼のために何かしてあげたい。彼に喜んでほしい。
部屋の文机の上には彼にもらった花が飾ってある。
貰うのはいつも私ばかり…。
『風さん…貴女は姫なのですよ。それは解っていますね?』
ふと耳に蘇ったのは、いつかの母の言葉。
私は、姫。
彼は、雑兵。
どうにもできない身分の差。
私はいずれどこかの貴族の御曹司に嫁がされ、彼はどこかの娘と結ばれる。
「…………っ」
悲痛な思いを声に出したつもりが、出てきたのは嗚咽。
気付いてしまった。
これは、一時の好奇心などではないということに―…。
どうすればいいの?
どうしたらいいの?
ぎゅっと手を握り、ただ涙を流すしかできない。
逢いたいのに、逢いに行けない。
私は本当に無力…。
「……たか?そっち……」
「……向こうは……」
声を殺して泣いていると、遠くから警備にあたる雑兵たちの声が聞こえてきた。
外に注意を向けてみると、先程と違って外が騒がしくなっているようで人の気配がする。
―まさか
そう思った瞬間、体はするりと御簾を抜け出していつもの場所に向かっていた。
今日は満月。
彼は来ない。
でも、もしかしたら…。
小走りで庭をすり抜け、お願いと心の中で叫びながら松の木の裏側に回りこんだ。
「…風」
「フェリオさん…」
いないはずの彼を見つけた瞬間、安堵と喜びでぺたりとその場に座り込んだ。
どうしたんだと慌てる彼を見ながら、風はまた涙を流した。
誰かに何か言われたのか、どこか怪我をしたのか、心配そうにこちらの様子を伺う彼にただ首を振り泣き続けた。
ただ泣き続ける少女を目の前に、途方にくれたフェリオはそっと寄り添い、風の肩に手を回した。
大丈夫だと言う様に、ぎゅっと肩に置く手に力を込める。
温かい体と置かれた手に、やがて風は落ち着きを取り戻して涙を拭いた。
「…落ち着いたか?」
「はい、すみませんでした…」
「いや、構わないよ」
いつものように笑ってくれる彼に、自然とこちらも笑顔になる。
そして、今迄で一番近い距離にいることに頬に熱が集まるのが解った。
「…あ、あの、」
「ん?」
「今日は満月ですよね?」
「ああ、そうだな。明るくて、大変だったよ」
「……何故、ですか?何故、危ない思いをしてまで…」
そう尋ねるとフェリオは少し俯き、何かを考えた後まっすぐに風を見つめた。
「風が泣いてるような気がしたんだ。…気が付いたら、ここに居た。それだけだ」
「……―、」
「居たか?」
気付いたらここに居たんだと言って笑った彼の笑顔にまた涙が込み上げて来て、逢いたかった、と告げようとしたその時だった。
さっきは遠くに聞こえていた雑兵の声がすぐ近くで聞こえた。
唐櫃~霧恋~
2008.08.12 |Category …小説~唐櫃~
-キミが笑うと嬉しくなって、キミが泣くと悲しくなるのはどうしてなんだろう。
暖かな日差しが注ぐ昼頃。
パタパタと軽快な足音が床板を鳴らし、廊下を歩く雑兵や侍女達をすり抜けていく。
後ろから注意を促す声が聞こえ、フェリオは「はーい」と口だけの返事をした。両手で大切そうに抱えた箱を落さないよう慎重に、それでも気持ちは急いで、ただ黙々と風の元へと向かった。
風の部屋の前。いつもの様に簾は下がったままだ。フェリオは大きく息を吸って、簾の奥へ届くように声を出した。
「風!今日は姉上から菓子を頂いたんだ。一緒に食べよう。」
返事がない。
いつもなら、そっと様子を伺うようにその簾から顔を覗かせるのに、どんなに待っても簾も中にある人影も動く気配がない。フェリオは、首をかしげ、もう一度「風!」と名を呼んだ。
「食べたく、ありません。」
囁きかと思うくらい小さな声が一言聞こえたが、それきりどんなに呼び掛けても、風の姿も声も現れることはなかった。
仕方なく菓子を手に部屋へと戻るフェリオ。足取りは行きと正反対に重たい。
部屋に着き、自分用の小さな机に菓子箱を置くと、その前にどかっと座り込んだ。
…どうしたんだろう。昨日までは声をかければ飛び出す―とまではいかないが、優しく笑って姿を見せてくれたのに。
なにかまた、気付かないうちに怖がらせるような事をしてしまったのだろうか。
「あーっ、もう!」
様々な思いがぐるぐると頭を駆け巡る。フェリオは両の手で頭を押さえ机に顔を押し付けるようにして伏せた。
最近、自分が変だと思う。
朝、目が覚めて、食事をして勉強をして。それから友人たちと体力の限界まで遊んで床に就く。今までそれが退屈だとは思った事はない。
仲の良い友人たちと庭で遊戯をしたり、時々大人達をからかっては怒られて。そんな毎日が楽しかった。それがすべてだった。
けれどそこに風が現れた。
突然目の前で泣きだし、嫌われたのかと思えば、何事もなかったかのように凛とした面持ちで怪我の手当てをしてくれた。変な奴、と心の中で密かに笑ったのを覚えている。
それから一緒に遊ぶようになって、風の事が徐々にわかってきた。
物静かだけど自身を強く持っていて、頭も良い。なのに時折どこか少し抜けた発言をする。
自分とは品格も性格もまったく違う雰囲気の少女。
「…なんだろ、ホント。」
顔を上げて左ヒジを机に立てると、手のひらで口元を押さえる。思わずそう言葉が漏れた。
姉上にこの想いを聞いてもらおうかと立ちかけて、やめた。
姉上なら今の自分に最良な言葉を掛けてくれるに違いない。しかし、今回はなぜだか妙に気恥ずかしい。
それに、今自分が考えなくてはならない事は先ほどの風の態度だ。
声質が明らかに違っていた。初めて聴く低くて悲しそうな声。
その時フェリオは、はっとした。あまりにも小さくて聞き取りづらかったが、その声はわずかに震えてはいなかっただろうか。
気が付くと、何も考えずに部屋を飛び出していた。
菓子箱はそのままに、ただ夢中で風のもとへ向かった。
- あの時、風は泣いていた…?
いくつもの部屋を過ぎて、廊下を渡る。次の角を曲がれば風の部屋に繋がる廊下に出るはずだ。フェリオは勢いよく身体を傾けた。
と、その時突然目の前が暗くなり、衝撃と共に身体は後ろに飛ばされてしまった。
「いてて・・・」
思いっきり尻餅をついたフェリオは腰のあたりを擦る。
その光景は風と出会った時に類似していたが、ぶつかった相手は全く違っていた。
大人の女性。それも見たことのない様な派手な装いの女性が壁にもたれ、立っている。
「っなんですか、一体。」
「す、すみません!俺、急いでいて・・・」
「廊下は走っていけないと教わりませんでしたか。これだから雑兵の子供は・・・―」
そういって目つきのきつい女性は乱れた着物をわざとらしく直すと、フェリオを上から見下ろした。
「…貴方、この先に何用ですか?」
「え、あ・・・俺は、風に用事があって・・・。」女性の眉がピクリと動いた。
「姫に?」
「ひめ?」
首を傾げたフェリオを女性は覗き込むように見て、それから「ああ・・・貴方が・・・」と呟いた後、先ほど以上に蔑んだ表情をフェリオに向けた。
「帰りなさい。ここは貴方の様な子供が来て良い場所ではありません。」
「え、だって俺は風の・・・―」
「貴方は姫のご学友に相応しくないと、后妃様がご判断いたしました。姫とはもう二度とお会いになりませんように。」
ふんと鼻を鳴らして女性はフェリオの行く手を阻むように廊下に立ち尽くした。
-風が、姫? 俺がご学友?
女性の言葉に困惑しながらも、フェリオは「けど…!」と反論の声を上げた。しかし女性の眼光はあまりに鋭く、ここは大人しく戻った方がいいとフェリオの本能が伝えた為、素直に踵を返し、足取り重く自室へと戻った。
秋夜の月は、明るい。
しかし、今夜は少し雲が多く、霧もかかっていた。
しん、と静まりかえった屋敷内。
週に3回は行われている貴族達の宴会も今日はない。皆、寝静まっている。
フェリオは寝室をそっと抜け出すと、足音を最小限に廊下を走った。風の部屋の手前の角-昼に女性とぶつかった辺り-で足を止め、そっと様子を伺う。すると一人の警備兵が立っていた。
女性の差し金だろうか。さすがにその前を通るわけに行かず、フェリオは来た道を少し戻ると渡り廊下から中庭へ出た。
中庭の中央には大きな古池があって、その回りを囲う様に様々な植物が生き生きと茂っている。
古池には希少な錦鯉が優雅に泳いでおりとても涼しげであった。
そしてその中庭で一際目立つ大きな松は、樹齢三百年を誇るものであり、長年多くの庭師によって手入れされてきた逸品だ。
そんな木々や草むらの中を隠れながらフェリオは進む。しばらくすると整備された場所から外れ、屋敷の裏側へと続く道に出た。
そこは誰も手をつけていないだけあって、まばらに生えた雑草が生い茂っている。人一人通るのがやっとといった感じだ。
そんな隙間を子供のフェリオはスイスイと歩く。そしてあるところで足を止めて、屋敷に沿って構えられた塀に登り、屋敷側にある小窓から中を覗いた。それは風の部屋に繋がった窓である。
しかし、暗くて何も見えない。じっと様子を伺うが、どんなに神経を研ぎ澄ませても人の気配は全く感じられなかった。
-…部屋を移動したのかな?
仕方なく塀からそっと降りて、来た道を戻る。
「…風。」
呟くと、胸の奥がチクリと痛んだ。
フェリオは中庭へ戻ってきた。不意に空を見上げるとそこには霧のヴェールを被ったおぼろげな月が見える。
視線を中庭に戻す。すると、古池の前にしゃがんで何かをしている風を見つけた。
霧で少し霞んで見えるが、自分と同じ位の背格好、金色の髪。あの姿は間違いない。
先程痛んだ胸が今度はドキリ大きくなった。
するとフェリオは、自分の足が竦んでいることに驚いた。剣の稽古で師範と戦った時だってそんな事はなかったのに。
フェリオはぎゅっと両手を身体の横で握って、口を開く。間を置いて出た自分の声は、あまりにも情けなく聞こえた。
「風」
ビクっと肩を揺らした風。
風は戸惑いながらもゆっくりと振り返り、二人の目が合った。
「フェリオさん…」
「なに、してるんだ?こんな所で。」
「…水を…替えていました。」
風の両手には一輪挿しがあり、そこには先日フェリオがプレゼントした一輪の芙蓉の花が挿してある。
大分日が経っているにも関わらず、とても元気に咲いていて、フェリオは自然と笑みがこぼれた。
「大切に…してくれてるんだ。」
「……」
無言で俯いた風は、月の微光に照らされてほんのりと赤い頬をしていた。
心臓が、とくん、と音を立てる。
フェリオは自分の胸の真ん中に手を当て、服と一緒に強く握る。体が熱い。
「こ、ここだと誰かに見つかるかもしれない。隠れよう。」
「……はい。」
フェリオは風に背を向けて、きょろきょろと辺りを見回す。そして、樹齢三百年の松へ向かった。風も霧でフェリオを見失わない様に後を追った。
松の木の裏。ここは渡り廊下からは陰になっている死角になっている場所であり、二人はそこへ並んで座った。
いくら大樹といえど、幹は子供二人並んでやっとの太さだ。息をするだけで肩が触れてしまいそうなほどの近さにフェリオの心臓は今にも飛び出しそうだった。
落ち着け、と自分の胸を叩いて、それから風を見た。風もどこか落ち着かない様子で、それを抑える様に一輪挿しをしっかりと胸に抱え、芙蓉の花をじっと見つめていた。
その優しげな横顔をフェリオは凝視出来なくなり、目線を正面に向け、切り出そうと息を吸った時、あの、と風が先に声を出した。
え、と振り向くフェリオ。目の前に自分を見つめる風の顔があった。
それから風は深々と、けれど胸に抱えてある花を潰さないようにそっと頭を下げた。
「今朝は…呼んで頂いたのに、顔を出さなくて本当にごめんなさい。」
「い、いいんだ、そんなの。でも、何かあったのか?あの後もう一度風の部屋に行こうと思ったら、女の人に止められたんだ。『二度と会わないように』って。」
え!、と息を飲むように驚いた風は俯いて、一言、「ごめんなさい」と呟いた。それからその女性は、自分に文学や教養を教えてくれている家庭教師だと、フェリオに伝えた。そんな勉強方法があったのかとフェリオは驚く。
今まで決められた時間と部屋に子供達が集まり、一人の先生が勉強を教えるという方法しかフェリオは経験していなかった。一人の生徒に一人の先生がつく勉強。特殊な授業であることに間違いない。
やはり風は自分達とは違うのだとフェリオは確信した。
宵闇で気が付かなかったが、今の寝間着に近い服装だって、寝心地の良さそうな清潔感のある白い服だ。あり合わせの古布を縫い合わせた自分の寝間着とは大違い。身分の差を、ひどく感じた。
「その家庭教師が、お前の事、『姫』って言ってた。」
「…はい。」
「そう…だったんだ。」
相づちとも肯定とも取れる風の返事に、フェリオは俯いてしまった。
フェリオの沈んだ声に、風が身体をフェリオの方に向けて両手を膝の前で重ねて頭を下げた。
「本当にごめんなさい。」
風の丁寧な謝罪に、フェリオが笑った。風はなぜそこでフェリオが笑ったのかわからず、首を傾げた。
「フェリオさん…?」
「ごめん、ごめん。だって風、さっきから謝ってばっかじゃん。」
「それはっ、私がフェリオさんにウソをついていたから…」
「風はウソなんかついてないよ。ただ黙ってただけ、…だろ?」
ニッといつもと同じように笑うフェリオ。言葉に偽りの無い笑顔に風の目に涙が溢れる。
「っ……。」
「え、な、なんで泣くんだよっ。オレ、なんかひどい事言ったか!?」
慌てふためくフェリオに、風は大きく首を振ってから自分の指で涙を拭って顔を上げた。
「ありがとうございます。私、フェリオさんの笑顔が…とても好きです。」
風が見せた笑顔と何気ない言葉に、フェリオは息を飲む。
次の瞬間、頭の中で散らばっていた感情がすべて繋がった気がした。
「…そろそろ、部屋に戻りますね。」
先程より屋敷内が騒がしくなってきた事に風は気が付いた。
固まっていたフェリオも我に返り、物音に耳を澄ませる。
「一人で大丈夫か?」
「はい。」
「暗いから、転ぶなよ?」
真剣に注意をするフェリオに風はきょとん、としてそれからくすくす、と笑った。
「私って、そんなに危なかしいですか。」納得した様に語尾を下げて言うと、ちがう、とフェリオが首を振った。
「…オレが心配なだけだ。」
「え?-」
「人気がなくなったみたいだな。風、今のうちにほら早く。」
赤くなった顔を見られたくなくて先に立ち上がったフェリオは、風の手を引いて立ち上がらせると、そのまま風の身体をくるりと回して背中をポンと押した。風の足が数歩フェリオから離れて止まる。
そっと振り返った風にフェリオは手を振って一言「おやすみっ。」と告げた。
「おやすみなさい。」
風はその場で軽く会釈をして、踵を返すと花瓶から水がこぼれない様に慎重に小走りで渡り廊下へ向かっていった。
暗闇で聞こえる足音に風の姿を想像して、口元が緩む。
それからはっとして、大きなため息の後、しゃがみ込むと膝に顔を埋めると腕で覆った。
腕に当たる頬と耳が熱い。
「オレは…風が好きだったんだ。」
そう身体の中で籠もる声は長い間挑んでいた問題が解けたかのような安堵感と、初めて味わう淡く温かい感情に満ちていた。
フェリオは顔をあげる。そっか。と笑みがこぼれた。
幼心に初めて生まれた恋という感情にフェリオはただ浮かれている。
そんなフェリオの想いを覆い隠してしまうかの様に、その晩、霧は一段と深さを増していった。
~fin~
唐櫃~芙蓉~
2008.06.07 |Category …小説~唐櫃~
時の移ろいは不思議。
楽しければ、さらさらと過ぎ、哀しければ、ゆるゆると過ぎる。
二人の出逢いから季節が少し駆けて行き、紅葉が色付き初めた頃。
「風っ、風居るかっ?」
少年はぱたぱたと廊下を走り風の部屋の前で急ブレーキをかけると、降ろされた御簾に向かってどこか急かすように呼び掛けた。
「…フェリオさん?どうかなさったんですか?」
「今、ちょっといいか?」
「はい、大丈夫ですが…」
御簾の中から少しためらいがちな声が届く。
何時だったか、出逢って少しした頃にもこんな風に急かすように呼ばれたことがあり、その時風は何事かと慌てて御簾を潜った。
『良いもの見せてやるよ!』
『良いもの?何ですか?』
フェリオは得意げに後ろ手に隠していたものをすっと風の目の前に差し出した。
いつも一緒に走り回っている友人たちは、やるな、さすがと囃立ててくれる。
きっと風も喜んでくれるに違いない。
『ほらっ、蛙捕まえたんだ!凄いだろ!』
『‥っ、きゃああっ』
フェリオの予想を裏切り、風は目の前に差し出されたカエルを見るなり、悲鳴を上げて御簾の中に逃げてしまった。
驚いたのはフェリオも同じで、どうしたのかと問うと御簾の向こうから震えた消えそうな声でカエルに驚いたのだと返ってきた。
せっかく喜んでもらえるかと思ったのに、とフェリオは肩を落とし、同時にそんな弱虫じゃダメだと風にお説教までもしてみせた。
『女の子と男の子を一緒にしてはいけませんよ』
事の一部始終を聞いた姉はやんわりと、そうフェリオに諭した。
女の子は男の子と違って弱い存在で、守ってあげなくてはいけないと。
そして、それ以来は動物を持って行くことはせず、大人しく体一つで訪ねる日々が続いていた。
「…風?」
「あ、はい…今、行きます」
しばらく躊躇っていたものの、フェリオはやんちゃで悪戯っ子なところはあるけれど自分が嫌がることはしない、と不思議な確信に背を押されて風は御簾を潜った。
「良いものやるよ」
「良いもの‥ですか?」
「ほら!」
フェリオはいつかの時と同じように、後ろに隠していた手をすっと風の前に差し出した。
「あ…これ‥」
「やるよ!……この前、驚かせたから…ほら!」
差し出された手の中にあったのは優しい薄紅色をした芙蓉の花。
いつもとは違うどこかぶっきらぼうな口振りと逸らされた視線、そして手の中の芙蓉て同じ色の頬。
風は喜びと今までに感じたことのない小さな鼓動の高鳴りに顔を綻ばせて、差し出された花をそっと受け取った。
「‥ありがとうございます、とても…嬉しいです」
喜びを噛み締めるように、思いがけぬ幸せを味わうようにゆっくりと紡がれた言葉と花と同じ色に染まった頬を見てフェリオは安堵の表情を浮かべた。
何か大切なものが通い合ったような温かさとくすぐったさに、二人は顔を見合わせて照れたように笑い合った。
「最近はあまり本を読んでいないようですけれど…何かあったのですか?」
フェリオと過ごす時間が徐々に増え、母に草子を借りに行くことが減っていた娘を心配して母は娘を部屋に招いた。
母の質問に風は嬉しそうに笑って、心配ないというように首を振った。
「お友だちができたんです」
「まあ、お友達?」
「はい、とても素敵な方なんです」
風は今までフェリオと過ごした時間を母に話した。
男の子の遊びがとても新鮮だということ、カエルに驚いたこと、花をもらったこと、楽しげに話す風とは対照的に、話を聞く母の表情は曖昧な笑みを浮かべていた。
「…お母様は喜んで下さらないのですか?」
母の表情に気付いた風は恐る恐る疑問を口にした。
母はぱらりと扇を開いて口元を隠すと、穏やかに諭すように風に告げた。
「風さん…貴女は姫なのですよ。それは解っていますね?」
「はい。それとフェリオさんに何の関係があるのですか?」
「彼は乳母の子…恐らく元服後はこの屋敷で雑兵として働くことになるでしょう」
「………‥お母様は身分が違い過ぎると仰りたいのですか?」
「貴女は聡い子です。全て解っているはずですよ」
風は扇に隠れて見えない母の顔を悲しみを湛えた瞳で見つめると、俯きぎゅっと手を握りしめた。
「でも…フェリオさんは…」
「風さん、貴女はまだ若い。けれど子どもではないはずです。…よく考えれば一時の好奇心だと解るはずですよ」
そっと告げてしばらく風を見つめた後、母は変わらず扇で表情を隠したまま娘に部屋で休むように告げると御簾の奥へ消えていった。
彼と一緒にいると楽しい。
草子よりも、もっと眩しくて温かい世界に、今まで知らなかった世界に触れられる。
新鮮な発見、喜び、時にびっくりして少し泣いてしまうこともあるけれど、彼と過ごす時間は胸の高鳴りが止まらない。
けれど…この胸の高鳴りは何?
母のいうように新しい世界に触れた高揚感?
或いは‥
唐櫃~若菜~
2008.05.11 |Category …小説~唐櫃~
「うわ!」
「きゃっ!」
突然視界に入ってきた少女の姿にフェリオは驚いた。
鍛えぬかれた反射神経で体にブレーキをかけて二人の衝突は免れた。しかし体を横倒しにした為にフェリオは渡り廊下から庭へと落ちてしまったのだ。
近くでわらじが、ぽすっと地面に落ちる。
いてて…とフェリオは起き上がり頭を擦った。
背中に衝撃はあったが、受身を取った事と、渡り廊下と庭の高さが2、3段ほどだったのでたいした痛みはなかった。その代わりに着衣は上から下まで砂まみれ。
小さくため息をついてから、フェリオは渡り廊下に視線を向けた。その先には小さな体をさらに小さくする様にしゃがみ込んで丸くなった少女がいる。なぜだろう、その場から全く動かない。
フェリオは不安になって庭から廊下にピョンと廊下に飛び乗り、風に駆け寄った。辺りには数冊の本が散らばっている。
「おい、大丈夫か!」
すぐ近くでかけられた声に風は恐る恐る顔を上げた。
琥珀色の大きな瞳をした少年がこちらの様子を伺っている。
すると風はもう一度俯いて肩をすくめるとポロポロと涙を流し始めた。
「・・・っ・・・―」
激突を寸前で回避した、と内心ほっとしていたフェリオは突然目の前で泣き出した風に心底驚いた。
子供ながら男子が女子を泣かせるなど、みっともない事だという教えが強く頭を過ぎる。
「ど、どこか痛むのか!?」
フェリオの問いに風の返事はない。困り果てたフェリオにさらに追い討ちをかける声がした。
「おーい、フェリオ!」
先程まで遊んでいた友人の一人だ。どうやら追いかけてきていた雑兵は巻いたらしい。しかし今のフェリオにとってほんの数分前の遊戯はもうどうでもよかった。
自分の前で少女が泣いている。こんな状況を他人に見られて大人に告げ口されては困る。フェリオは慌ててもう一度庭に降りると、転がったわらじを掴む。それから数歩その声の方へ駆けてわらじを投げ
「ごめん、オレ用事思い出したから抜けるなー!」と冷静を装って叫んだ。
「えーなんでだよー!」
大きな弧を描いたわらじが友人の手に渡ると同時に聞こえてきた声に気づきながらもフェリオはそれを無視をして、風の足元に散らばった御伽草子をかき集め、左の小脇に抱えた。
「行こう。」もう片方の手で風の手を取る。
「え?」無理やり立ち上がらされて風は驚き、そして繋がれた手に顔を赤くする。
早歩きなフェリオの後ろ姿を見つめながら、風は小走りになりながらもただグイグイと手を引かれ、二人はそのまま館の中に入っていった。
同じ様な部屋が並ぶ回廊を歩き、ある部屋の前で足を止めた。
失礼します、とフェリオが声を掛けると中から「どうぞ」と返ってくる。フェリオは繋いだ手をそのままに襖を開けた。
部屋は陽の光だけの割にとても明るくて清潔な雰囲気だ。そしてすぐ目に飛び込んできたものは金色の長い髪の女性だった。
「どうされたのですか?フェリオ。」
優しい笑顔に合った優しい声。その女性をフェリオは姉上、と呼んだ。
「こいつが…ケガしたかもしれなくて…」
フェリオの繋いだ手の先にいる風を見て一度目を丸くすると、彼女はあらあら、と困ったにしては明るい声で答えた。
「お入りなさい。」
そして優しい声でそっと二人を中へ招き入れた。
少年が姉と呼ぶ碧眼で美しい女性の前に風は座らされる。初対面でこんなにも品のある『大人の女性』に見つめられ、風は身を竦めた。
「そんなに怖がらないでください。私はエメロード。どこか痛いところはありますか?」
「い、いえ…大丈夫ですっ。」
「ウソだ。だって泣いたじゃないか。」
突然割り込んできた声に風はビクッと体を震わせる。フェリオは二人から離れて扉に一番近い位置でこちらを見ていた。
「フェリオ。」
静かに、といった感情を含めてエメロードはフェリオの名を呼ぶと怒られたと捉えたのか、はい、とフェリオは首を垂れた。
エメロードの視線が風に戻る。真剣で心配そうな瞳。
「本当に?」
「は、はい。ただびっくりしてしまって…。」
風は俯いて顔を赤らめた。どこかを痛めたなら未だしも、驚いただけで泣いてしまった事がとても恥ずかしい。
すると風の頭にふわりと暖かいものが触れる。
風は驚いて顔を上げるとそれはエメロードの優しい手だった。そして目の前にはエメロードの笑顔。
「それは安心致しました。」
―なんて暖かくて優しいのだろう。
その手のぬくもりに風も自然と笑顔になった。
「それでは、これから私と一緒にフェリオの手当てをしてくれますか?」
え、と目を丸くする風とフェリオ。
優しいけれど先程よりもどこか明るさを含む声を出してエメロードがフェリオを見た。
フェリオは風に怪我が無いと確信し、「よかった。」とまた先ほどの悪戯という名の遊戯に戻ろうと考えていたものだから、突然の姉の言葉に驚いたのも当然である。そんなフェリオを知ってか知らずかエメロードは続けた。
「ケガをしているのでしょう?その格好を見ればわかります。」
確かにフェリオは庭に落ちた時の格好のまま。端から見ればフェリオの方が怪我をしていると思うだろう。
「オレは大丈…」エメロードが白く細い手をそっと伸ばした。
「フェリオ、こちらへ。」
否と言わせぬエメロードの笑顔がフェリオにグサリと刺さる。この笑顔に勝つ術をフェリオはまだ知らない。無力な少年は、「はい」と諦めて足を前に出した。
「はい、終わりました。」
そう言うと、風は包帯の端をきゅっと結んだ。
「へえ、結構上手いんだな。」フェリオは腕にまかれた包帯をまじまじと見る。幸い目立つ怪我はこの腕だけで、手当てはすぐに済んだ。
「ありがとうございます。」フェリオの言葉に少し照れながらも、笑顔で答える風。傍らにあった薬箱に医療道具を片付け始める。
とても慣れた手つき。普段、同い年の男子ばかりとやんちゃばかりしているフェリオにとってそれはとても新鮮な光景だった。
-これが…女の子。
窓からそよかぜが流れ込んでくる。そのかぜが風の髪を優しく揺らすと、甘い花のような香りがした。
中身を綺麗に入れ終えた後、蓋をして薬箱を風呂敷で包む小さな手をフェリオはただ、ぼーっと見つめていた。
その視線に気付き、風が「なに…か?」と首を傾げ問いかける。
フェリオは、はっと我に返り、顔を赤くするとすぐさま視線をそらして「そ、そういえば姉上はいつ戻ってくるんだろうなっ」と少し裏返った声で言った。
「そうですね…。」
今、部屋にエメロードの姿はない。
少し前、フェリオの手当てをしようと準備をしていると、エメロードは侍女に呼ばれ、部屋を出て行ってしまったのだ。
必然的に残された風がフェリオのケガの治療をする事になった。
始めはヒトの…それも男子の身体に触れる事に困惑したが、自分との激突を避けて怪我をしたと幼心ながらも責任を感じていた風は、意を決して彼の肌に触れ、見事に手当てをし終えたのだった。
「あの・・・ごめんなさい。」
突然の謝罪の言葉にフェリオがえ、と風の方を見た。俯いて髪で少し隠れた表情は曇っている様にみえる。
「私が注意して歩いていなかったから、貴方にこんなお怪我をさせてしまって…」
「ち、違う!あれは俺が急に飛び出したから悪いんだ!」
フェリオは首を横に大きく振るとそれから思いっきり頭を下げた。
「ごめん!」
その行動があまりにもオーバーで、風は手を胸の前に添えたまま固まってしまう。それからくすくす、と小さく笑うと両手を膝の上で重ねた。
「それでは私たち、お相子ですね。」
「そ、そうだな。」顔を上げて、ははっとフェリオも笑う。
「俺はフェリオだ。」
「私は…風、と申します。」
「風か、じゃあ俺たち今日から友達なっ。」
フェリオはニッと笑って手を前に出した。その様子にただ驚く風。
「とも…だち?」
「そう。…ダメか?」
フェリオは不安な顔をして手を降ろしかける。
風は反射的にいいえっ、と首を横に振り、そっと手を伸ばしフェリオの手に近づけると、風が掴む前にフェリオがぎゅっと手を握った。
「よろしくな、風。」
「はいっ!よろしくお願いします、フェリオさん。」
そっと指先がフェリオの手に触れるくらいの力で握り返し、風は今日一番の笑顔で照れながらも笑った。
―握手。それは会釈が主流な日本にはなんだか不釣合いで、風にはとても新鮮で、今更ながらどこか改まった挨拶だった。
照れながらも手を握り、笑顔を交わす二人。その姿はただ可愛らしくて純粋な子供という以外何者でもなかった。
しかし、時は平安時代。
二人がそれぞれの身分の違いを痛感させられた出来事が起きたのは、それから半年ほど経った紅葉が赤く庭を染めるやや肌寒い秋の事だった。
唐櫃 ~夢への誘い~
2008.04.03 |Category …小説~唐櫃~
時は平安の都。
花々は四季の移ろいと共に、その表情を変えゆく。
人々は咲き乱れる花に喜びを感じ、空を染める夕日に憂いを汲み、傾き沈みゆく月に来ぬ人への想いを重ねた。
そんな、ゆるりゆるりと時が過ぎてゆく時代。安らかなる時が、さらさらと流れる時代。
そんな時代の、一人の雑兵と一人の姫君の物語。
雑兵の名はフェリオ。
緑の髪とどこか悪戯っぽい瞳、そして強い信念と真っ直ぐな心を持つ兵。
姫君の名は風。
甘栗色の髪と穏やかな瞳、そして強い意思と信じる心を持った姫。
出会いは、ある春の昼下がり。二人が、まだ元服も終えていない幼き頃。
少年は何事にも好奇心を示し、屋敷に仕える女房たちの息子と庭を駆け回る日々を、少女は御伽草子に心奪われ、毎日のように母の元へ草子を借りに通う日々を過ごしていた。
その日も幼い姫は母の元へ通い、新しい草子を借りて自分の部屋に帰るという日常を繰り返すはずだった。
けれどその日常は、ちょっとした喧騒によって塗り替えられてしまった。
いつもの帰り道、自分の部屋がある対へと続く渡殿を渡り部屋へ帰ろうとした時だった。
裏手の方からバタバタという足音と雑兵の怒ったような声、そしてそれを楽しみからかうかのような少年たちの笑い声が聞こえた。
よくよく耳を澄ましてみると「鬼さーん、こちらっ」や「悔しかったら追いついてみろ!」、「おじさんも一緒に遊ぼうよ」という声に混じって、「誰がおじさんだ!」「コラ!早く返さんか、ガキ共!」という雑兵の叫び声が聞こえてくる。
雑兵の声も心底怒っている訳ではなく、困ったようで、それでもどこか楽しんでいるような声だった。
「何事でしょうか…」
ポツリと呟くように声を漏らすと、幼姫は草子を抱えたままでそろそろと声のする方に足を向けた。
「フェリオ!パスだ!」
「よし!任せろ!」
少年の声と同時に、風の視界を勢いよくわらじが飛んで行った。
そして、それを追いかけるように緑の髪の少年が勢いよく走ってきた。