唐櫃~萌芽~
2008.09.22 |Category …小説~唐櫃~
雲が月を隠してくれたあの日。初めての逢瀬の日。
あの日以来、昼間は女房たちがフェリオの行く手を阻んでいるのか、走ってやってきては自分の名を読んでくれる彼の姿を見ることはなくなった。
けれど、それに反比例するように、臥待月の頃や気紛れな雲が夜の光を遮ってくれる日に、彼がこっそりあの松の木の下に来ることが増えた。
初めはもしやと訪れ、二度目は僅かな期待を抱き、三度目は不確かな予感を信じた。
そうして始まった小さな逢瀬が、日常になるまでにそう時間はかからなかった。
「・・・フェリオさん、」
暗がりに目が慣れないうちは自分の家の庭と言えど、歩くのは怖い。
例え逢瀬が日常になり、そこに向かう道がいつも同じでも、闇の向こうから野良犬か何かが飛び出してきたらと思うと震えてしまう。
「…フェリオさん?」
不安でいつも彼の名を呼ぶ。きっと来てくれているはずだけど、もしかしたら今日は…。
もし彼が来ていなければ、自分はこの暗闇の中に一人きり。
そうやって、不安に押し潰されそうになった時、そんな時はきっと…。
「…こっちだよ、風」
そう、彼はいつも優しく名前を呼んで道を示してくれる。
月が出てきた訳でも、明かりが灯った訳でもないのに、彼に名を呼んでもらった瞬間、いつもすっと辺りが見えるようになる。
「風、こっちこっち」
すっかり耳に馴染んだ声を頼りに、松の木の下に辿り着くとフェリオは必ず笑顔で出迎えてくれる。
「大丈夫だったか?見つかったりしてないか?」
「…いつもそう仰いますけど、私はそんなに頼りないですか?」
「あ、いや、違うんだ、そうじゃなくて……」
「…ひどいです、フェリオさん」
少し拗ねたように言うとフェリオは驚き、慌てて首をぶんぶん振って否定する。
上手く言えないのか言い淀む彼に、追い討ちをかけてみるとますます困り出した。
変わらず元気らしいことが解るとおかしさが込み上げてきて、風は思わずくすくすと笑みを零した。
「あ…からかったな?」
「ふふっ、すみません。いつも大丈夫かと聞いてくるんですもの。ですから、私がしっかりしてるところをお見せておこうと思いまして」
「…一本取られたな」
「しっかりしてますでしょう?」
「ま…そーだな」
悔しいのか、ぷいとそっぽを向いたまま投げやりに答える様子がおかしくて、風は再び笑いを零した。
それを見たフェリオは軽く肩を落とすと、むくれるのを止めてそっと風に向き直った。
「もうちょっとカッコよく渡したかったのになあ」
「…え?」
そっと渡されたのは小さな撫子の花束。
10本足らずの花の根元を紐で括っただけの質素な花束だったが、フェリオが朝からずっと庭中を駆け回って集めて作ってくれたものだった。
静かに高鳴る胸を押さえ、差し出された花束を受け取った。
「…これは、何に対するお詫びですか?」
「お詫び?」
「以前、花を頂いたときは驚かせたお詫びでしたから…」
「ああ、あれか…。今回のはそういうんじゃないんだ」
「…?ならば、何故?」
「なっ…べ、別に何でもいいだろっ」
そう言ってそっぽ向いてしまった彼の頬が赤くなっていたような気がするのは、自分の見間違えだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、風は御簾ごしに輝く月を眺めた。
今日は満月。月の光は庭の隅々まで明るく照らしている。
もっと幼い頃は、火を焚かずとも明るい満月の夜が好きだった。
それも逢瀬が始まった今では、少しでも月明かりが暗い夜の方が好きになった。
満月の夜は逢えない。
お互いにそう約束した訳ではなかったけれど、そんなことも暗黙の了解となってしまうだけの逢瀬を重ねた。
月の明るい夜は草子を広げて文字を追う。目は文字を追うものの考えることは今までの逢瀬のこと。
できるだけ気配を殺し、雑兵の目をすり抜けて、草むらの中を掻い潜って逢いに来てくれる彼。
服が土で汚れていることなんていつものこと。木の枝に引っかかったのか、腕に傷を作っていたこともあった。
ろくな道具も持ってはいなかったものの、せめて傷口を布で押さえるだけでもと近寄ると、服が汚れるとバレるからと止められた。
「…服なんて……構わなかったのに………」
悲しかった。傷を作ってまでフェリオはここに来てくれる。
それなのに、ただ、服が汚れるという理由だけで、触れることすら出来ない。
きっと傷は痛いだろうに、自分の無力さに泣きそうな私を見ると、大丈夫だからと笑顔を向けてくれる。
「…どうして?」
どうして、私は何も出来ないの?
私だって、彼のために何かしてあげたい。彼に喜んでほしい。
部屋の文机の上には彼にもらった花が飾ってある。
貰うのはいつも私ばかり…。
『風さん…貴女は姫なのですよ。それは解っていますね?』
ふと耳に蘇ったのは、いつかの母の言葉。
私は、姫。
彼は、雑兵。
どうにもできない身分の差。
私はいずれどこかの貴族の御曹司に嫁がされ、彼はどこかの娘と結ばれる。
「…………っ」
悲痛な思いを声に出したつもりが、出てきたのは嗚咽。
気付いてしまった。
これは、一時の好奇心などではないということに―…。
どうすればいいの?
どうしたらいいの?
ぎゅっと手を握り、ただ涙を流すしかできない。
逢いたいのに、逢いに行けない。
私は本当に無力…。
「……たか?そっち……」
「……向こうは……」
声を殺して泣いていると、遠くから警備にあたる雑兵たちの声が聞こえてきた。
外に注意を向けてみると、先程と違って外が騒がしくなっているようで人の気配がする。
―まさか
そう思った瞬間、体はするりと御簾を抜け出していつもの場所に向かっていた。
今日は満月。
彼は来ない。
でも、もしかしたら…。
小走りで庭をすり抜け、お願いと心の中で叫びながら松の木の裏側に回りこんだ。
「…風」
「フェリオさん…」
いないはずの彼を見つけた瞬間、安堵と喜びでぺたりとその場に座り込んだ。
どうしたんだと慌てる彼を見ながら、風はまた涙を流した。
誰かに何か言われたのか、どこか怪我をしたのか、心配そうにこちらの様子を伺う彼にただ首を振り泣き続けた。
ただ泣き続ける少女を目の前に、途方にくれたフェリオはそっと寄り添い、風の肩に手を回した。
大丈夫だと言う様に、ぎゅっと肩に置く手に力を込める。
温かい体と置かれた手に、やがて風は落ち着きを取り戻して涙を拭いた。
「…落ち着いたか?」
「はい、すみませんでした…」
「いや、構わないよ」
いつものように笑ってくれる彼に、自然とこちらも笑顔になる。
そして、今迄で一番近い距離にいることに頬に熱が集まるのが解った。
「…あ、あの、」
「ん?」
「今日は満月ですよね?」
「ああ、そうだな。明るくて、大変だったよ」
「……何故、ですか?何故、危ない思いをしてまで…」
そう尋ねるとフェリオは少し俯き、何かを考えた後まっすぐに風を見つめた。
「風が泣いてるような気がしたんだ。…気が付いたら、ここに居た。それだけだ」
「……―、」
「居たか?」
気付いたらここに居たんだと言って笑った彼の笑顔にまた涙が込み上げて来て、逢いたかった、と告げようとしたその時だった。
さっきは遠くに聞こえていた雑兵の声がすぐ近くで聞こえた。